天照の弟・スサノオノミコト「朝鮮からやってきました」これどういう意味?
新良貴氏はアメノヒボコの子孫で、アメノヒボコは新羅王の神武の兄貴に子孫だと伝えている
つまり日本側の資料では、アメノヒボコは神武の兄貴の血統で、その由緒地に舞い戻ってきたわけだ
神武天皇
半島はこの勢力相手に15世紀まで武力対立して
独立性を保ってたらしいから全く関係ない。
普通に渡来氏族
昔からそう
倭人の朝鮮人イジメが酷くて、海を渡って攻め込むニダと考えたが
海は苦手と、取りやめた
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。
王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
神武天皇
半島はこの勢力相手に15世紀まで武力対立して
独立性を保ってたらしいから全く関係ない。
一回は考えたが、やめたとよ
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。
王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
考古学の大家がそうゆってる
そりゃアメリカ様みたいな扱いにもなるわ
その300年後に遊牧民からこれを授かってる。
百済が攻めてくるニダ
身動き取れず、一方的にイジメられていたのが朝鮮人
>私は百済と共に謀って
同時期、百済も倭人に攻撃されていた事を伺わせるが
2カ国を同時に攻撃するとか、倭人は無慈悲だな
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。
王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
アマテラス、スサノオ兄弟姉妹?が活躍したのが1世紀後半~2世紀前半(西暦100年前後)
アマテラスの孫たるニニギが活躍したのが倭国大乱(2世紀後半(西暦146年~189年?))
ニニギの曾孫たる神武天皇が活躍したのが神武の東征(3世紀後半~4世紀前半)
時系列がぴったり
日本列島内だけで完結した話なんだよ
性格や行動に一貫性が無さすぎる
百済が攻めてくるニダ
身動き取れず、一方的にイジメられていたのが朝鮮人
>私は百済と共に謀って
同時期、百済も倭人に攻撃されていた事を伺わせるが
2カ国を同時に攻撃するとか、倭人は無慈悲だな
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。
王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
帥升
安帝の永初元年(107年)冬十月、倭国が使いを遣わして貢献した。
安帝の永初元年、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた。
ある書によると……
スサノオの行いは酷いものでした。
よって神々は千の台座に乗るほどの宝を提出させて、最後には追放してしまいました。
このときにスサノオは息子の五十猛神(イタケルノカミ)を連れて、新羅国に降り、曾尸茂梨(ソシモリ)に辿り着きました。
そこでスサノオが言いました。「この土地に、わたしは居たくない」
それで土で船を作って、それに乗って東に渡り、出雲の簸の川(ヒノカワ)の川上にある鳥上之峯(トリカミノミネ)に辿り着きました。
そのときその土地に人を飲む大蛇が居ました。 スサノオは天蠅斫之劒(アメノハハキリノツルギ)を使い、
この大蛇を斬りました。大蛇の尾を斬ったとき刃が欠けてしまいました。
それで尾を裂いて見ると、尾の中に一本の神剣がありました。スサノオは言いました。「これは私のものにしてはいけない」
スサノオの五世孫の天之葺根神(アメノフキネノカミ)によってこの神剣は天に捧げられました。
これは現在でいうところの草薙剣(クサナギノツルギ)です。
元に五十猛神(イタケルカミ)が天界を下った時に、多くの木の種を持っていました。
これを韓(朝鮮半島)には植えずに、すべてを持ち帰りました。それで筑紫(九州の北部)から初めて、
大八洲国(オオヤシマクニ)に蒔いたので、日本に青々としていない山は無いのです。
紀伊国に居る大神はこの五十猛神(イタケルカミ)です。
さてこの五十猛神は出雲でヤマタノオロチ退治の際何もしてないみたいですが
なぜでしょう
五十猛神は言いました。「この土地に、わたしは居たくない」
元に五十猛神(イタケルカミ)が天界を下った時に、多くの木の種を持っていました。
これを韓(朝鮮半島)には植えずに、すべてを持ち帰りました。それで筑紫(九州の北部)から初めて、
大八洲国(オオヤシマクニ)に蒔いたので、日本に青々としていない山は無いのです。
紀伊国に居る大神はこの五十猛神(イタケルカミ)です。
スサノオの話を除去して編集してみた 非常にすんなりしたわかりやすい話になった
いきなり渡ってきて即座に手慣れた感じで自分たちを天津神現地民を末路わぬ民(我々に逆らう不届きな民)とか言って征服して支配しようとしたりまあどこかで見た光景だわ
紀元前20年 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。馬韓王が瓠公に「辰・卞(弁)二韓は我が属国だったのに、近年は貢物を送ってこない。大国に仕える礼(儀)が、これでいいのか?」と言った。
これに対して瓠公は、「わが国は二聖が国を建ててから人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので、辰韓の遺民から、卞韓、楽浪、倭人に至るまで恐れ、かつ、したわないものはありません。
しかし、わが王は謙虚で、下臣を遣わして国交を結び交わそうとするは、過ぎたる礼(儀)というべきであります。それなのに、大王はかえって怒り、兵を以て脅かすのは、これ何の意味でありますか?」と言った。
馬韓王はますます怒って瓠公を殺そうとしたが、左右の臣たちが諫めてやめさせ、許して帰した。
これより先、中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。彼らの数が多く、栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌って責めたものである。
瓠公という人は、その族姓は詳(つまび)らかではないが、元は倭人で、初め瓠を腰に吊って海を渡って来たため瓠公と称した。
>中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。
>瓠公という人は、その族姓は詳(つまび)らかではないが、元は倭人で、初め瓠を腰に吊って海を渡って来たため瓠公と称した。
スサノオは秦国の乱で新羅に逃げてきた漢人の可能性があるが
それなら、日本の王家たるスサノオの出自について、何らかの言及があっても良さそうなもんだが、そんな記事は中韓の歴史書には一切無い
とにかく、日本の王家は一貫して倭人、倭種なのである
これが許されてる理由
卑弥呼の時点ですでに余裕でトライ系


勘当しよう
スクナビコナはとーちゃんのタカミムスビの命令で協力していた
挑戦人
凄い前向きに感じる
ふざけんなって髪型だけどwww
遊牧民の髪型。
i.imgur.com/Xx4SMxH.jpeg
神武天皇
i.imgur.com/1ZL7DXk.jpeg
ただこの頃はモンゴルって国は存在しないから
このエリアのどっかから来た可能性。
チョウセンはこの集団と15世紀まで戦い抜いたらしいから無関係。
i.imgur.com/fMIQMWX.jpeg
しかし、日本のサムライはこれの変化かもw
>>129
の3枚目に描かれてるよ。殿様みたいなタイプ。
今の朝〇人韓国人と同じDNAのチョンは半島に存在せず、チョンはシベリアにいた
今の朝〇人と今のアジア系シベリア人の遺伝子を比べるとどうなんだろ?
その資料の記事
「倭人は呉の太伯の子孫と中国の歴史書に書いてある」
これだけ
中国、朝鮮の歴史書に書いてない事、妄想ばかりするなよ
それが事実なら、普通にそう記録しているし、朝貢先の中国にもそう説明しているつーの
だが資料では一貫して、日本列島の王は全て倭人もしくは倭種だ
朝鮮人も新羅の王は倭人だよーんと、ちゃんと記録しているだろう
57年 (4代王の)脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。
4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」